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リストマーク 問題40 鎌倉十橋その3 

2007年05月28日 ()
【問題40】
英勝寺を建立した尼僧の名前がつけられた鎌倉十橋のひとつは?

【問題40のこたえ】
:勝ノ橋(かつのはし)

勝ノ橋1

徳川家康の愛妾であったお勝の方が出家し、英勝寺の尼僧となり、この橋を架けた。
明治の末頃までは立派な橋が架かっていたそうである。
※お勝の方関連問題は、【問題39】参照

勝ノ橋2
壽福寺門前の庚申塔の横に石碑があるのみ。

お勝の方は、梶という名前だったが、家康が戦場に梶を連れて行くと必ず勝利したからそう呼ばれるようになったということだ。大阪の陣にも同行したという。
女好きの秀吉ですら、戦に女人を連れて行くことはしなかったそうだが、家康は必ず何人かの女人を同行させ、足や腰を揉ませたり、健康管理についても女性たちが把握していたと、司馬遼太郎の『城塞』で読んだ記憶がある。
城塞 (中巻)


英勝寺の本尊は、三代将軍徳川家光が寄進したといわれる運慶作の阿弥陀三尊像。

英勝寺7

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[2007.05.28(Mon) 12:28] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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リストマーク 問題37 やぐら 

2007年05月25日 ()
【問題37】
鎌倉に現存するやぐらの中で最大級とされており、「羅漢洞」ともいわれているものは?

【問題37のこたえ】
:明月院やぐら

明月院やぐら4

壁面に基壇があり、壇上に釈迦如来、多宝如来が浮き彫りにされている。
また十六羅漢像の浮き彫りがある。中央には宝篋印塔が祀られている。

明月院やぐら1

明月院は、山内上杉の祖、上杉憲方により創建されたため、この墓所と伝えられている。

明月院やぐら5

開山堂。この左手にやぐらがある。開山(初代住職)は密室守厳(みっしつしゅごん)禅師
新緑が美しい。アジサイが満開になってくると、「鎌倉に競輪場ができたのか?」といわれたことがあるほどの人手になるので、時期をずらして拝観するのをオススメしたい。

明月院やぐら3

明月院やぐら2

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[2007.05.25(Fri) 15:33] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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リストマーク 問題27 鎌倉仏教1 

2007年05月22日 ()
【問題27】
鎌倉時代には、それまでの貴族を中心とした仏教ではなく、どんな人間にも救いの道があるという教えを説く新しい仏教が多く誕生した。
「法華経こそ真の仏の教え」だとして、武家と町民が行き来する絶好の場所を選び、道行く人に教えを説いたその僧の名と旧跡は?

【問題27のこたえ】
日蓮(にちれん)、日蓮辻説法跡

辻説法2

この場所で日蓮は、法華経の教えを熱心に説いた。

辻説法3

日蓮が腰掛けたといわれる「腰掛石」は、道の反対側にあったが、明治時代に日蓮宗学者により現在の場所に移された。

辻説法1

日蓮は、女性に人気があったという。
男前だったからという説もあるが、「南無妙法蓮華経」と唱えれば、女性も成仏できるという教えがあったからだろう。
それまでは、月経中の女性は不浄だとして、仏道に邪魔とまでいわれていた時代だった。

◆所在地:鎌倉市小町2-22

「日蓮ゆかりの水」についてはこちらの問題

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[2007.05.22(Tue) 23:45] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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リストマーク 問題21 鎌倉十橋その2 

2007年05月16日 ()
【問題21】
新田義貞の鎌倉攻めの際に、迎えうつ北条軍の防衛線がこの辺りで崩れはじめた。
このことが名前の由来となった橋は?

【問題21のこたえ】
:乱橋(みだればし)

乱橋4

亂橋またはは濫橋とも書く。
幕府の公式記録『吾妻鏡』に記されているのは、鎌倉十橋のうち、「筋違橋」「乱橋」の二つだけだそうだ。
昭和14年までは、鎌倉市乱橋材木座という地名ともなっていた。
800年以上に渡り守られた由緒のある名前といえる。

乱橋1 乱橋3
鎌倉町青年団の建てた碑。
見落としてしまいそうな場所だが、水道路から海岸方向へ、左手に妙長寺、その先の右手に碑がある。

乱橋2

橋の面影は殆ど無い。
【問題4】鎌倉十橋その1 

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[2007.05.16(Wed) 21:25] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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リストマーク 問題15 墓碑 

2007年05月13日 ()
【問題15】
源頼朝の右腕となり、頼朝の死後も北条政権を支え、
頼朝の墓の東側に墓があるとされる人物は?

【問題15のこたえ】
:大江広元(おおえのひろもと)

大江広元は、頼朝の招きで鎌倉に下向。公文所や政所の別当となり、
頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであるといわれている。

大江広元3

三基あるうちの真ん中が大江広元の墓、左は毛利季光(もうりすえみつ)、
右が頼朝の子といわれる島津忠久(しまづただひさ)の墓だとされている。

大江広元

それぞれの墓の前には、亀の体に蛇の顔の土台の碑が建てられているのだけど、
これが怖い。

大江広元5
コワい顔でしょう?

大江広元2
ここまで訪れる人は比較的少なく、ひっそりと静まっているだけに・・・。
ひゅうう・・・と風が通り過ぎていった・・・。

◆所在地:鎌倉市西御門

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[2007.05.13(Sun) 17:54] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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リストマーク 問題14 町の旧跡 

2007年05月11日 ()
【問題14】
由比ガ浜通りと今小路の交差点にあり、この北側が刑場だったためにつくられた史跡は?

【問題14のこたえ】
:六地蔵(ろくじぞう)

六地蔵2

鎌倉時代に御成町には問注所があり、そこで裁かれた罪人の刑場が、この北側にあったため、
このあたりは「飢渇畠(けかちばたけ)」と呼ばれる荒れた場所だった。
供養のために、『六道』から救うといわれる六体の地蔵が祀られたのがこの「六地蔵」である。

※「飢渇(けかち)」は、飢え渇くと書く。
要するに利用価値のない、嫌われた場所のことをさすようだ。
※『六道』生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう)の6つの迷いの世界

六地蔵3
背後にある碑には、「此処は 昔時の刑場なり」の文字が見える。
俳人の松尾芭蕉の弟子である松尾百遊が建てた句碑もある。

六地蔵1
六地蔵交差点

◆所在地:鎌倉市由比ガ浜1-3-9付近

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[2007.05.11(Fri) 14:57] 旧跡の問題トラックバック(0) | この記事へのコメント(0)
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